投稿

沖縄の、普天間基地の、辺野古への移設工事について思うこと

人の数だけ文章の書き方がある。一つのことや思いを伝えるにも無限の選択肢があって、もっとポップに書けたらと思うけど、万人に訴える文章などないのだから、自分の言葉で書くしかないと観念する。 普天間基地移設のための、辺野古の大浦湾の埋め立てが本格的に着手された。工事の設計変更を承認してこなかった県知事に代わって、国(国交相)が承認する代執行が裁判で認められたことを受けてのものだ。 たしかに、手続きは踏んでいる。でも、その手続きは沖縄の人の意思を、人権さえも、踏みにじっている。 私は代執行を受け容れない知事の姿勢を支持する。 どうしても沖縄でなきゃダメなんだとしたら、それこそ民意を蔑ろにして力づくでやってはいけないはずだ。代執行の権利を行使したら、沖縄には打つ手がなくなる。政府は一つの県を、文字通り追い詰め、絶望に追い込んでいる。声をあげても力でねじ伏せる。ねじ伏せるなんてもんじゃない。体を張って守ってきたものを、簡単にぽきっとへし折るようだ。声は行き場を失う。 裁判で代執行が認められました。もう話はついてます。ガラガラガラとシャッターが降ろされる音が聞こえる。 いろいろな立場の人がいる中でも、辺野古の工事には圧倒的多数が反対の意思を示してきた。辺野古が唯一とか言いながら、世界に類を見ない深さの埋め立て工事にロマン感じてるってほんとですか?10年近くかけて。体を張って辺野古の海を守ろうとしている人たちの前でそれが言えますか。10年後の米軍の青写真に、ほんとに辺野古は入っているんですか?沖縄の人が払う犠牲や、彼らの意思に、どうしてそんなに無関心でいられるんですか。 政府は完全に沖縄をなめている。他の地方自治体には、海を隔てて遠く離れた、特殊な小さな県のことだと思わせればいい。そう思っている。 沖縄県民以外の市民のノーが、どうしても必要だと思う。 もし興味が湧いたら、 聞いてみてください: 「国が沖縄県にした前例なき代執行 守られなかった民意と判決、不正義はどこに #1459」 (2024年3月26日 朝日新聞ポッドキャスト) 読んでみてください: 「あなたは沖縄の何を知っているのか」 (2022年10月15日の投稿)

布おむつの話

家では基本的に布おむつな我が子です。生後1ヶ月からは、できる限りトイレに連れて行って用を足してもらうようになりました。いわゆる(というほど浸透している言葉かわかりませんが)「おむつなし育児」です。今回は、トイレで用を足し始めるようになる前の、布おむつの話をします。 私自身が布ナプキンを使っているからだと思いますが、布おむつは子どもが生まれる前から興味がありました。紙おむつと併用してみようと思い、つれあいを巻き込んで10枚輪型おむつを縫いました。すると知人が、いかにも私がやりそうだからと、布おむつのお古をたくさん譲ってくれました。図らずも十分な量を確保できてしまったので、布おむつだけでやってみようということになりました。こういうことへのこだわりが強いのは私の方で、つれあいは面倒がらずに付き合ってくれたという感じです。ちなみに、ネットで買えないものはない時代ですが、リアルで手に入れようとするとなかなかチョイスがなかったのがおむつカバーでした。 布おむつの良いところってなんだろうと考えたとき、濡れていなければ紙より肌触りがいいこと、濡れたことが本人にわかること、大量のゴミを出さずに済むこと、に私は引かれます。買い物の手間がないこと、経済的なことももちろんgoodです。反対に良くない点は水をたくさん使うことで、それに伴って水道代も上がります。言うまでもなく洗濯物の量が半端なく増えて、雨続きだと煩わしさ倍増です。 今の紙おむつって、おしっこをしてもほんっとにサラサラで吸収も良くて、長時間つける場合の快適さは布おむつと比べるまでもありません。便利です。ただ、その吸収の良さが私は怖い(感覚的に)。そして、濡れている時の心地の悪さを子どもが感じることがないのも、いいのやら疑問に思います。 とはいえ、上述したように洗濯物が段違いに増えます。量が増えるということは洗濯の回数も増えるし干す場所も必要になるということで、この辺の準備は完全に不十分でした(ちょっとやってみよう、な心持ちだったので)。病院から退院後、しばらく手伝いに来てくれていた母に「私がいなかったら無理だったね」と言われたのも無理はありません。 洗ってもきれいに落ちなくて挫折したという話も聞いていたので多少不安はありましたが、この点については、洗濯終わりで色残りがあっても、うんこだけにウコンと一緒で太陽...

新幹線の授乳室から生きやすい社会について考える

イメージ
大きなタイトルをつけてしまいました。授乳と縁のない人にも読んでもらえたらいいなあーとの願いを込めて。 新幹線に授乳室があることをご存じでしょうか。 JR東海〜JR九州を走るN700系。N700Aは、多目的室が空いているときに授乳室として使用させてもらうことができ、N700Sは、多目的室のほかにも授乳スペースとして使用できる小部屋が複数ある。 小さな赤ちゃんを連れ立って長時間の外出をするときは、車での移動でない限り、なんとなくでも授乳のやりくりを考えておかなければならない。といっても、私自身は、子どもがごく小さかった頃は授乳ケープひとつで、バスでも公園でも外食先でも、あまり気にせず授乳していた。電車も、特急などの前を向くタイプの車両であれば気にしない。 それが、子どもがほんの少し大きくなると、こちらのスタンスが変わらなくても事情が変わった。ケープをかけると視界が遮られるのをいやがり、かといって申し訳程度にケープをかけて視界を確保すると気が散ってしまっておっぱいを飲むことに集中できない。 そこにきて、新幹線の授乳室は願ったり叶ったり。長距離移動用の乗り物なだけあって、今どき完備してくれてるもんだなあと、時世を感じるとともに感心。ミニマルなスペースに必要なものが揃っている。ケープも必要ないし、気を散らすことなくおっぱいを飲んでもらえて、とても助かる。 だけど同時に疑問も湧く。これは結果的に、超少子化社会と、そんな時代に小さな子どもを持つ親に、いい影響をもたらすのか? 今回の授乳室のように、"それ"用のものができて便利になってしまうと、当事者も周りの人も、それがないときの耐性がどうしたってなくなる。そのうち、新幹線の座席で授乳するなんて非常識だ、と言われかねなくなるんじゃないか。 これはなかなか難しい話で、たとえば喫煙なんかについても同様の言い方ができる。今や喫煙可能な場所ではないところでタバコを吸っている人に遭遇しようものなら、思わず顔をしかめてしまう。私を含めた非喫煙者は確実に道ゆくタバコ吸いに不寛容になっているだろう。身体に害があるとかないとか、もちろんそういう観点から話をすることもできるけど、単純にそれだけを理由に一蹴してはいけない気がする。 自分が好きじゃないものに寛容になるって難しい。好きなものだけに囲まれて生きていけたらい...

『言葉を失ったあとで』を読んで 性被害のことや傷ついた人との向き合い方を考える(後編)

イメージ
( 前編 を読む) 人は他人をどこまで引き受けられるのか 自分自身が、助けを必要としている人にとって必要な相手になるのではなく、その人にとって必要な環境をつくったり、体験を仕掛けたりすることができるのがプロだというような話があった。 そうでなければ、相手から依存される存在になってしまう。このことは自分自身の体験を振り返ってみて全くその通りだと思うけれど、素人にはなかなかできないことだ。どこにつなげることが正解なのかわからないから自分が背負いきれる以上に他人のことを背負おうとしてしまう。中途半端に正義感の強い人がやってしまいがちなことだけど、それではどちらにも利がない。そのことを再確認した。 DV被害者と自己決定 はたからみて DV を受けている人が、どのように、 DV ではないと正当化するか。 彼らは自分の選択だ、という。 はたから見てレイプにしか思えない体験も、そのあと付き合ったからあれはレイプではなかった。好きって決めたから好き。だから、性暴力ではない。 人は時に、一方ではおかしいと思っていることがあるのに、「いや、おかしくなんかない」と、自分が受けている暴力や性暴力を正当化するような思考ができてしまう。 女性の性の自己決定ということが言われ始めた時の実態はこういうことだった、と上間さんは言う。 自分がその(被害の)責任を引き受けると決めてしまった時点で、明らかに性暴力であったものが性暴力としてのなりを潜めてしまう。それのどこが自己決定なのだろうか。問題が根深くなるばかりである。 被害者たちが手にすべきもの 今回本を読んで初めて知った、 grooming という概念。これは、ターゲットとして馴致(じゅんち)する、飼い慣らすこと。つまり、加害者の言いなりにならせて加害者について思考停止する状態を作り出すことだと言えると思う。 そういう概念と解釈を被害者たちが手にすることができるといい、と上間さんが言っていた。そうすれば、自分が仕向けたんじゃないか、という思考や、この状況を選んでいるのは自分だと思い込もうとする行為を手放すことができるかもしれない。 DVに限らず、自分が一点の曇りもなくまるごと愛されてきた、と考えなくていいということ。周りから見てどうかではなく、自分がどう思ったか、どんなふうに傷ついたかということを大事にしていい。そして、それに対する謝罪を求め...

『言葉を失ったあとで』を読んで 性被害のことや傷ついた人との向き合い方を考える(前編)

イメージ
『言葉を失ったあとで』信田 さよ子、上間 陽子(筑摩書房、2021年) 思いが溢れすぎて、この読書体験を大切にしすぎて、なかなか記事にできなかった一冊。 2023年1月ごろに読んだ後、半年近くかけて少しずつ文章を整理したものの、生活環境が変わって余裕がなくなり、下書きのままにしていた。結局今の私には、うまくまとめる技量と時間がないので、公開のごく個人的な読書記録とする。 性暴力、性加害という言葉が目新しくもなくなって、時機を捉えるどころか遅きに失したが、 この本を取り上げる意義はまだまだ変わらずにあるというのが今の日本社会の現在地だと思う。 対談を本にしたものは中身が薄いイメージがあったけれど、少なくとも私にとって、この本はとんでもなく濃密だった。ごくごく個人的な私自身の体験・経験と結びつけながら、咀嚼するように読み進める読書体験だった。響いたところを全部取り上げたら、元の本の厚さに戻ってしまいそうだ。 信田さんはカウンセラー・心理士という立場で、上間さんは研究者という立場で社会調査を通して、アルコール中毒者や DV の被害者、性暴力の被害者 、また時にはそれらの加害者たちと関わり、話を聞いてきた。その経験と経験に基づく考えを、かなり率直に語り合ってくれていると思う。 自分のほとんど知らない世界の話でありながら、どこか遠くのお話としてではなく我が事として、おおいに考えさせられながら読み進めた。上間さん・信田さんが聞いてきた当事者たちのエピソードそのものが私自身の経験と重なるわけではなくても、当事者の女性たちの思考回路や考え方には自分のそれと重なるところがあった。そこに二人の客観的な視点が入ることで、反省を促されたり励まされたりした。当事者の視点を知ると同時に、 聞く側や支援する立場にいる人のあるべき姿勢みたいなものを教えられた。 使用許諾の取り方に表れる姿勢 上間さんも信田さんも、普通に考えたらできない(から、研究者やカウンセラーのほとんどがやらないであろう)ことを、普通の感覚を保ちながら実行している。そこに、一人の人間と向き合おうとする姿勢が丸ごと表れていると思う。 クライアントや調査対象者から聞いた話の使用許諾の取り方について、二人の話は驚きだった。 上間さんがインタビューをするときに大切にしていることは、相手に時間をつくってもらって実現したインタビュ...

書きたい気持ちはある

子どもが生まれた。ゼロから1なものだから、当然生活がガラリと変わった。自分の時間はなくなった。今度は育休があけて、時間に余裕がなくなった。でも移動時間という自由な時間ができたので、ぽつり、ぽつり、と書いていきたい。 子育て以外の話題は出てこないかもしれないが、子育てとは無縁のところにいる人にも読んでもらえる内容にしたいなあ。

あなたは沖縄の何を知っているのか

上間陽子著 『海をあげる』 を読んだ。 声を出すことがとても窮屈で、日々を当たり障りなく穏便に過ごすことが重要な世の中だ。意思を表明することや怒りを表に出すことは、叩かれることこそあれ、褒められることはないに等しい。すると声はどんどん小さくなって、小さな声は聞かれなくなる。そういう社会に窮屈さを感じている人にも、鈍感でいられる人にも、読んでほしくなる本だった。 上間さんの声の中には、はっきりとした怒りがあって、それを表明しようとする意思がある。その声は、ある時は幸福の対岸から、ある時は幸福のすぐそばから漏れ出てくる。正当で、静かに耳を傾けるべきものばかりだった。 上間さんの声や彼女が聞いた声が沖縄を代表していると言えば語弊がある。でも、沖縄で生まれ育ち、沖縄の外に出て生活し、また沖縄に戻って子育てをしながら生活している上間さんが、感じて、拾い、発する言葉に嘘はない。 上間さんは言う。語られることの裏には語られないことがある。聞く耳を持つものにのみ語られることがある、と。 辺野古への基地の移設について、幾度となく示されている沖縄の人々の民意。それを無視する政府(あるいは日本の社会)。報道される事件、されない事件。それらに対する沖縄の人々の抗議。公に知られている基地の弊害がある一方で、知らなかった沖縄の貧困の問題がある。上間さんの聞き書きによって、私はそのことを知る。 沖縄の人の口から基地のことが語られることは滅多にないという。私情で語ることが難しかったり、許されなかったり、個人の感情そのものが複雑だったりするのかもしれない。ある人にとっては一票を投じることが精一杯の行動なのかもしれない。またある人にとっては語るべきことなどないのかもしれない。沖縄の中でも温度差や隔たりがある。だから、ここで私が「沖縄の人」と括ることもまた乱暴なのだろうと思いながら、書いている。 米軍基地と、本の中で語られる沖縄の貧困との間に、直接的な関係はないのかもしれない。基地があることで沖縄の経済が回っているという側面も、事実としてあるのかもしれない。基地があることの間接的な良さはいくつもあるのだろう。けれど、私には本の中に書かれている沖縄の貧困が、基地が存在し続けていることのしわ寄せに思えてならない。 上間さんは言葉を濁すことなく、基地が与えるものと奪うものは、トレードオフになんかなり...