『言葉を失ったあとで』を読んで 性被害のことや傷ついた人との向き合い方を考える(後編)

前編を読む)

人は他人をどこまで引き受けられるのか

自分自身が、助けを必要としている人にとって必要な相手になるのではなく、その人にとって必要な環境をつくったり、体験を仕掛けたりすることができるのがプロだというような話があった。そうでなければ、相手から依存される存在になってしまう。このことは自分自身の体験を振り返ってみて全くその通りだと思うけれど、素人にはなかなかできないことだ。どこにつなげることが正解なのかわからないから自分が背負いきれる以上に他人のことを背負おうとしてしまう。中途半端に正義感の強い人がやってしまいがちなことだけど、それではどちらにも利がない。そのことを再確認した。

DV被害者と自己決定

はたからみてDVを受けている人が、どのように、DVではないと正当化するか。彼らは自分の選択だ、という。

はたから見てレイプにしか思えない体験も、そのあと付き合ったからあれはレイプではなかった。好きって決めたから好き。だから、性暴力ではない。


人は時に、一方ではおかしいと思っていることがあるのに、「いや、おかしくなんかない」と、自分が受けている暴力や性暴力を正当化するような思考ができてしまう。


女性の性の自己決定ということが言われ始めた時の実態はこういうことだった、と上間さんは言う。

自分がその(被害の)責任を引き受けると決めてしまった時点で、明らかに性暴力であったものが性暴力としてのなりを潜めてしまう。それのどこが自己決定なのだろうか。問題が根深くなるばかりである。

被害者たちが手にすべきもの

今回本を読んで初めて知った、groomingという概念。これは、ターゲットとして馴致(じゅんち)する、飼い慣らすこと。つまり、加害者の言いなりにならせて加害者について思考停止する状態を作り出すことだと言えると思う。


そういう概念と解釈を被害者たちが手にすることができるといい、と上間さんが言っていた。そうすれば、自分が仕向けたんじゃないか、という思考や、この状況を選んでいるのは自分だと思い込もうとする行為を手放すことができるかもしれない。


DVに限らず、自分が一点の曇りもなくまるごと愛されてきた、と考えなくていいということ。周りから見てどうかではなく、自分がどう思ったか、どんなふうに傷ついたかということを大事にしていい。そして、それに対する謝罪を求めていい。そういう、本来当たり前に持つべき自分主体の思考の仕方とそれがいかに大切かということを、教えてもらった。そして同じくらい難しくて大事かもしれないのが、それを語るための言葉を獲得することだ。


(日本のメディアがこぞって性加害問題を取り上げた2023年後半から2024年初めにかけて、何度もこのグルーミングという言葉を耳にした。今や、かなり一般的に理解される概念なのかもしれない。)

おわりに

男性は、この本を、憤ることなく読み切ることができるのか。そんな疑問を持たずにはいられない。女性が自分たちをエンパワーすることを覚えて、十分な数の男性が反論したい気持ちを抑えてこの本を読めるようになったら、男と女は対等な関係を築けるようになるんじゃないか。


信田さんも上間さんも見えすぎているし、編集の人もよく見えているから、二人の話がよくわからない時もままあった。二人が噛み合っている感じで会話をしていても読んでいる私には噛み合っているのかどうかわからなかったりする。とはいえ、そのわからなさを差し引いてもはるかに得ることが多かった。言葉を補ってもらえたら一層ありがたかった。


2人の対談から、加害に対する厳しさ(必要なもの)と、傷ついた人を徹頭徹尾エンパワーしようとする温かさを感じた。

『言葉を失ったあとで』信田 さよ子、上間 陽子(筑摩書房、2021年)

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