『言葉を失ったあとで』を読んで 性被害のことや傷ついた人との向き合い方を考える(前編)

書影

『言葉を失ったあとで』信田 さよ子、上間 陽子(筑摩書房、2021年)

思いが溢れすぎて、この読書体験を大切にしすぎて、なかなか記事にできなかった一冊。2023年1月ごろに読んだ後、半年近くかけて少しずつ文章を整理したものの、生活環境が変わって余裕がなくなり、下書きのままにしていた。結局今の私には、うまくまとめる技量と時間がないので、公開のごく個人的な読書記録とする。

性暴力、性加害という言葉が目新しくもなくなって、時機を捉えるどころか遅きに失したが、この本を取り上げる意義はまだまだ変わらずにあるというのが今の日本社会の現在地だと思う。

対談を本にしたものは中身が薄いイメージがあったけれど、少なくとも私にとって、この本はとんでもなく濃密だった。ごくごく個人的な私自身の体験・経験と結びつけながら、咀嚼するように読み進める読書体験だった。響いたところを全部取り上げたら、元の本の厚さに戻ってしまいそうだ。

信田さんはカウンセラー・心理士という立場で、上間さんは研究者という立場で社会調査を通して、アルコール中毒者やDVの被害者、性暴力の被害者 、また時にはそれらの加害者たちと関わり、話を聞いてきた。その経験と経験に基づく考えを、かなり率直に語り合ってくれていると思う。


自分のほとんど知らない世界の話でありながら、どこか遠くのお話としてではなく我が事として、おおいに考えさせられながら読み進めた。上間さん・信田さんが聞いてきた当事者たちのエピソードそのものが私自身の経験と重なるわけではなくても、当事者の女性たちの思考回路や考え方には自分のそれと重なるところがあった。そこに二人の客観的な視点が入ることで、反省を促されたり励まされたりした。当事者の視点を知ると同時に、聞く側や支援する立場にいる人のあるべき姿勢みたいなものを教えられた。

使用許諾の取り方に表れる姿勢

上間さんも信田さんも、普通に考えたらできない(から、研究者やカウンセラーのほとんどがやらないであろう)ことを、普通の感覚を保ちながら実行している。そこに、一人の人間と向き合おうとする姿勢が丸ごと表れていると思う。


クライアントや調査対象者から聞いた話の使用許諾の取り方について、二人の話は驚きだった。

上間さんがインタビューをするときに大切にしていることは、相手に時間をつくってもらって実現したインタビューで、いい時間を過ごせたなって思ってもらうことだという。まずそのことを一番に考えられる研究者が、どれだけいるか。


社会調査では、(保身のために)念書を交わすのがスタンダードになっている。でも、本人に気持ちよく過ごしてもらうこと・話してもらうことを一番に考えたら、そのやり方にはならないだろうと上間さんは言う。何度も会ってもらうことを考えると、その方法では難しい。だから、説明はするけど念書は交わさない。


信頼関係を作ることが大事な場面で、紙を出して念書を交わすのは、相手を身構えさせること以外の意味を持たない。これはきっと、一度構築した信頼関係を保ち続けようとする場合も同じことだろうと思う。


とはいえ、聞き取ったことを書いて世に出したものが、話した本人にとって不本意なものになることもありうる。でも、もしそうなってしまったら責任を取るしかない。上間さんにはそういう覚悟や心構えがある。あるいは、最終確認の段階で外に出すのがNGになったとしても、それはしかたのないことだと考えている。


なぜそういうふうに考えられるかというと、上間さんの根底には「調査ってやっぱり迷惑なものだ」という意識があるから。私はその考えに同意する。社会的意義があったとしても、境遇の近い当事者の力になったとしても、その調査が話した本人にとって価値を持つとは限らない。もちろんそうであってほしいと願うけど。だからこそ、上間さんの「一番」は、話してもらった本人に、いい時間だったなーって思ってもらうことなんだと思う。


信田さんも上間さんの話を聞きながら共感を示して、お互いの関係を作るときに、同意書を書いてもらうというやり方は合わないという。本当に、その通りだ。


文書で同意を得ることが世の中のスタンダードになっているとしても、内実、形骸化しているだけで中身が伴わないという例はごまんとある。なんでかといえば、本当の意味で同意を得ることは骨の折れる作業だから。上間さんの、本当に相手に通じる言葉で説明をして、相手との関係をつくって、同意を得ようとする姿勢には脱帽する。


私自身、大学の卒論で聞き書きを扱った経験がある。厳しい状況に置かれた人から聞かせてもらった話を扱う心苦しさや、許可や同意を得ることの大切さはよくわかるつもりだ。当時は自分の精一杯をしたつもりでいたけど、振り返ると未熟でしかなかった。上間さんと信田さんから、人の大事な話を聞き、扱うときに、信頼関係を築くことがいかに大切か、そのあるべき姿を示してもらった。

身体か言葉か

上間さんは、ヘビーな話の内容を確認するときには、きれいなお菓子の詰め合わせを持って行くと話していた。その日の夜は眠れなくなる子が多いから、がんばって話した自分へのご褒美だと思ってもらえるように、と。

研究でもカウンセリングでも、身体接触や何かをごちそうしたり、飲食を共にすることは一般的にタブーとされているらしい。それでも、一緒においしいものを食べることは意義深いという。


調査の対象者にもよるが、決して楽をしてきたとはいえない境遇の子たちに話を聞く機会が多い上間さんの調査の場合、おいしいものをおいしいねって言いながら安心して過ごせる時間は、話をする側にとって尊いものだろうと思う。


これに対して二人ともが、調査対象者やクライアントの体に触れることのあやうさを話していた。身体接触を一概に否定しているわけではなく、身体と言葉のどちらを優位と考えるかという話だと信田さんは言う。上間さんは、言葉に依拠しながら仕事すべきとトレーニングされた人と、身体に直接働きかける仕事をしてきた人の感覚は違うのではないかと話していた。だから、看護職や介護職の人はためらいなく、そして自然に触るのではないか、と。


言葉を武器に仕事をしてきた信田さんは、言葉の力を信じているし、彼女の中でかつてクライアントに触れたことと失敗の経験が結びついていることもあって、体に触れるということをとても慎重に考えている。

触れることをしないという距離の取り方を冷たいと感じ、それがきっかけで離れていく人もいるけれど、それはしょうがない、と。


上間さんも、聞き取りの対象者が泣いていても、触らないようにする。代わりにきれいにアイロンをかけたハンカチを用意する、と話していた。例外は警察案件や出産などの特別なときだけで、そういうときもひとこと言ってからさわる。境界線をとても大切にしている。


上間さんの菓子折りやハンカチのエピソードが、彼女の人柄をすごくよく表しているんだろうなあと勝手に想像して、こんなふうにありたいと思った。


上間さんが話を聞く相手の中には、自分のからだになんども侵入されている人が多くいる。だから、からだは自分のものだということ、大切に守るべきものだということを知ってもらうために、簡単には触れない。自らあたためたり、気持ち良く感じたり、コントロールできるように促すのだという。


その考えはすごく腑に落ちるし、彼女たちのことを、今だけでなくもっと長い目で見守ろうとする態度だと思った。それは、他人として長く付き合おうとするからこそできることだし、生まれてくる考え方だと思う。


触れることの力は小さくないと思うけど、その分、必ずしも良い方向に働くとは限らないということ、触れることは安易な考えだということ。それ以外にも方法はあるのに、考えようとしたこともなかった。なんというか、感情ではなく、理性で人を包み込むというのか。それくらい、触れるということには自覚的になった方がいいのだと思った。


後編に続く)

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