あなたは沖縄の何を知っているのか
上間陽子著 『海をあげる』を読んだ。
声を出すことがとても窮屈で、日々を当たり障りなく穏便に過ごすことが重要な世の中だ。意思を表明することや怒りを表に出すことは、叩かれることこそあれ、褒められることはないに等しい。すると声はどんどん小さくなって、小さな声は聞かれなくなる。そういう社会に窮屈さを感じている人にも、鈍感でいられる人にも、読んでほしくなる本だった。
上間さんの声の中には、はっきりとした怒りがあって、それを表明しようとする意思がある。その声は、ある時は幸福の対岸から、ある時は幸福のすぐそばから漏れ出てくる。正当で、静かに耳を傾けるべきものばかりだった。
上間さんの声や彼女が聞いた声が沖縄を代表していると言えば語弊がある。でも、沖縄で生まれ育ち、沖縄の外に出て生活し、また沖縄に戻って子育てをしながら生活している上間さんが、感じて、拾い、発する言葉に嘘はない。
上間さんは言う。語られることの裏には語られないことがある。聞く耳を持つものにのみ語られることがある、と。
辺野古への基地の移設について、幾度となく示されている沖縄の人々の民意。それを無視する政府(あるいは日本の社会)。報道される事件、されない事件。それらに対する沖縄の人々の抗議。公に知られている基地の弊害がある一方で、知らなかった沖縄の貧困の問題がある。上間さんの聞き書きによって、私はそのことを知る。
沖縄の人の口から基地のことが語られることは滅多にないという。私情で語ることが難しかったり、許されなかったり、個人の感情そのものが複雑だったりするのかもしれない。ある人にとっては一票を投じることが精一杯の行動なのかもしれない。またある人にとっては語るべきことなどないのかもしれない。沖縄の中でも温度差や隔たりがある。だから、ここで私が「沖縄の人」と括ることもまた乱暴なのだろうと思いながら、書いている。
米軍基地と、本の中で語られる沖縄の貧困との間に、直接的な関係はないのかもしれない。基地があることで沖縄の経済が回っているという側面も、事実としてあるのかもしれない。基地があることの間接的な良さはいくつもあるのだろう。けれど、私には本の中に書かれている沖縄の貧困が、基地が存在し続けていることのしわ寄せに思えてならない。
上間さんは言葉を濁すことなく、基地が与えるものと奪うものは、トレードオフになんかなりえない、と訴えている。沖縄は、厄介事を受け入れてくれる場所であってほしいし、美しい自然を提供してくれる観光地であってほしい。その時々によって都合のいいイメージを押し付けるだけの私たちに、上間さんはずっと、静かに怒っている。
私には、大好きな沖縄の友人がいる。もう長いこと疎遠になっているけれど、ずっと大好きな人だ。上間さんの本を読んで、その友達に会いに沖縄旅行に行った時のことを思い出した。
私にとって初めての沖縄で、私はおんぶに抱っこで彼女にいろいろなところに案内してもらった。私が彼女に平和祈念公園やひめゆりの塔にも行きたいと言ったら、彼女はなんでわざわざそんなところに行きたいのか理解できないという反応で、予定に組み込もうとしてくれなかった。
私はその理由を説明する代わりに、今こんな本を読んでいるんだよと、沖縄の集団自決について書かれている本を見せた。
そのあと彼女の実家におじゃまして、私がそういう場所に行きたがっているという話になったとき、彼女のお母さんはAちゃんに言った。「Aちゃんもそういうところに行って勉強した方がいいよー。」
それに対して、彼女は気乗りしないような返事をしていたように思う。でも結局、Aちゃんは私をそういう場所へ連れて行ってくれた。
その道すがらのことだったと思う。Aちゃんが、「アサちゃんは戦争に反対?」と聞いてきた。
私は即答できず、口籠った。そして彼女は私の返答を待たずに言った。
「私はぜったいに反対なのね。」
彼女は戦争のむごさを繰り返し教えられて育ってきた人だった。
私は自分を恥じるしかなかった。戦争に反対だと即答できなかったことにではない。そういう場所に行きたいと言っておきながら、戦争に賛成か反対かなどほとんど考えたこともなかったこと、それほど能天気に生きてきたことが恥ずかしかった。そんな私を咎めるでもなく、彼女は私を戦没者を慰霊するための場所へ連れて行ってくれた。
Aちゃんが、普段は決して表に出さない、彼女の大切にしている思いを話してくれたこと、そしてそのとき私が感じたことは、ずっと忘れないと思う。
けれど、今回、上間さんの本を読んで、自分の浅はかさ、無神経さにまったく気付けていなかったことを教えられた。
沖縄の歴史の暗い部分について書かれた一冊の本を、読み終えることもせずにのこのこと持ってきて、そういう本を読んでいるというパフォーマンスを見せて、戦没者を弔う場所に連れて行ってほしいと言ういやらしさ。彼女のお母さんに、あんなふうに言わせたこと。Aちゃんがそう言われるような場面をつくったこと。
なんと無知で、想像力に欠け、愚かな言動だったことか。いまさら、深く恥じ入る。
私は彼女を傷つけた、と思う。でも、彼女は傷ついてなどいないのかもしれない。はじめから、期待などされていなかったかもしれない。
沖縄の人たちはみな、戦争や基地のことにまったくの無関係でいることはできない。でも、東京やその近郊で育った私には、それが難なくできてしまう。遠くの町のこととして、傍観できてしまう。そして、無意識に心を寄せるふりをしたりする。それぞれが立っている場所に、想像するよりもはるかに大きくて深い溝があることに、私は気づかなければいけなかった。
沖縄の人の思いは計り知れないし、わかりえない。上間さんは、沖縄の人の声や彼らが直面する現実を私たちに共有することで、そのことをはっきりと示している。
私は沖縄の何を知っているのか。その現在地を正しく知ること。それが一歩でも近づくためには不可欠で、これは、そのための本だと思う。
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