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(続)映画『杜人』 足元の風を通す

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一つ目を読む 週末に通う田舎の家。限られた時間でできることはたかが知れていて、いつも時間に追われている。それは決して心地の悪い感じではないのだけれど、中途半端に手が付いているもの、まったく手が付けられていないもの、変えていきたいことややりたいことが山積みで、もどかしくもある。 例えば竹林整備について。春はとにかく生えてくるタケノコを掘るので精一杯、冬は倒れている古い竹を片付けるので精一杯。どうしたらもっと竹林全体に手が回るかとか、そういうことにまで思考がたどり着かない。猫の額ほどの畑の管理。趣味の家庭菜園だから自然栽培を貫いているけど、実際のところ、ほとんど収穫はないし、完全な管理不行き届きでポテンシャルが引き出せていない。庭に植えた果樹のこと。小ぶりに育てた方が良いと人様に言われても、私はできる限り伸び伸びと育ってほしいと思う。あるいは林。これにはほとんどまったく手が出せていない(とはいえ、下手に出すよりいいのかもしれない)、などなど、挙げればキリがない。 でも、映画を見終えて、なんだかとても重要なヒントを得た気がした。矢野さんの考えに触れて、家、庭、竹林、畑、田んぼ、ミツバチ、林、うちを構成するすべての要素が、ばらばらではなく大きな一つのものとして捉えられることに気が付いた。もっと言えば、それらは大きな大きな全体の一部だということ。 これまで、外の空間において、風を通すとか空気の流れを変えるとかいう発想は持ったことがなかった。それにそれは、とてもじゃないけど手に余ることのように聞こえる。 でも、実は、草の刈り方一つ変えてみるだけで、風の通り道は変わりうるのだということ。些細なことでも、何かを変えたらそれが周囲に作用するということ。私が変化したら、それがあなたにも作用するということ。ここをどうにかすることが、ここじゃないどこかをどうにかしうるということ。 普遍的な真理を過小に評価して、意味のないことだと思っていた。 矢野さんの考え方ってどういうものなんだろう。どういう視点で学びを広げていったらいいんだろう。それを考えながら、本を読んだり実践してみたりして、わくわくしている。頭でっかちになって動き出せなくなるのとは反対の学び。大きいことじゃなくて、足元のことを考える。足元を見て、足元を変えて行く。そうすると、それが波紋のように広がって、時間的にも...

映画『杜人』 知恵を授かる

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今年6月に見た映画。 見たい!と思って見に行って、上映開始後すぐに、見に来てよかったと思った。造園家であり大地再生の活動をしている矢野智徳さんを追いかけたドキュメンタリー。 矢野さんたちのやっていることの本当の成果は、映画で前田せつこさんが追った、さらにその先を追いかけなければ、見えてこないのだろうと思う。それでも、矢野さんの存在を教え、彼の自然環境に対する考え方、自然に対して少しでもポジティブな働きかけをしようとする姿を映し出すこの映画は、価値あるものだと思う。 自然は、誰も満たされていない、みんなが少しずつ我慢をしながらできることをしている世界だ。それなのに都会では、自然が奴隷のように虐げられている。あまたいる存在の中で、人間だけが自然にネガティブな働きかけをしている。 矢野さんはそんなことを言っていた。矢野さんは、どうしたら、自然の中で人間も生かされる存在になれるのか、知っている人なんだと思った。 都会では、木々は最後に乗せられるデコレーションでしかない。 ああ、私ったら、なに都会にある見せかけの自然をありがたがっちゃってたんだろう。植えられた瞬間からその最後の時まで、不自然な環境に置かれ続ける木々のことを。元気ないな、かわいそうだな、こんな狭いとこ、とは思っていたけど、容赦ない矢野さんの言葉に、事態の深刻さと、私自身の考えの浅はかさを思い知らされた。 自然は、今、このときも破壊され続けていて、まさに待ったなしの状況であるということ。と、同時に、まだ再生できるかもしれないという希望も、わずかながらあること。そのためには、今動く必要があるということ。そしてそれは、私の足元から始めることができるのだということ。矢野さんは、正しい危機感を授け、そして、何をすべきかを行動で示してくれているような気がする。 矢野さんは、現状が絶望的であることを伝えながら、鎌一本、移植ごて一本で、その状況が変わっていくような働きかけができるよ、と教えてくれる。風と水の通り道を作ること。それが、大地が呼吸を取り戻すために欠かせないこと。 つづきへ