『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』を読む

今、すぐにでも読みたい本や見ておきたい映像が頭の中にいくつもリストアップされている。それなのに、カメでウサギの私の歩みと言ったら。入れたものを噛み砕くのにまた時間がかかって、読める文章にするのにまた時間がかかる。まったく途方もない。それでもこの場所を、大切に水を貯めていくための作業場のようにしたい。
少し前に(と書いてからまた時間が経った…)、評判だという『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』という本を読んだ。
私の歴史の知識の程度は、いつ、どこを選んでも壊滅的だし、そもそも大きな流れというものさえまともに頭に入っていない有り様。だから、物事を考えるときに歴史的な視点が欠落している。そしてなにかあるといつも、自分の感覚と、信頼する人の発信に頼ってしまう。それだけではいかん、と、何回目かしれない一念発起中。
この『独ソ戦』は、タイトルの通り、第二次大戦の独ソ戦を概観するような内容になっている。独ソ戦の戦況の推移や双方の戦略といったことだけでなく、その背景にある経済や他国との戦況がどのように影響したか、ということについても触れられている。言うまでもなく私にとっては新しいことだらけで、ところどころ苦戦しながら読み終えた。今読んで損はない一冊だった。

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ヒトラーという人に漠然と抱いていたイメージが、多少、変化した。少し考えてみたらわかるはずなのに、今までまったくの考えなしで、戦争映画やなんかで、すっかり「ヒトラー=独裁者」で、周りは従っていただけ(それをよしとするか否かは別として)、というイメージを持たされていたけれど、それが少し薄らいだ。
ヒトラーはナチスドイツの人間で、ナチスドイツは国民によって選挙で選ばれた政党だ。それで彼一人だけ、狂った思想の持ち主だったっていうのは無理がある。彼をよいしょする人がいて、彼に賛同する人がいて、彼に共感する人がいた。たった一人の狂った人間のために、国が、人々が動くなんてことはない。それなりの、動く理由があって、動かす力があったのだ、と思う。
たとえば、ゲルマン人でありさえすれば劣等人種や反社会分子に優越するという考え方は、当時、ドイツ国内に広がっていた格差や分裂から、国民の目を背けさせるのに打って付けだったという。考え方の枠組みは同じままに、一つ下の階層を用意して、そこに当てはまる人を敵視させることは、単純明快で、国内の内部分裂を避けるのに非常に効果的だったのだろう。
また、戦後、生き延びた将校たちは、失敗の原因をこぞって亡きヒトラーによるものとしたそうだけれど、実際のところはそうではなかったという。彼らも、戦術・戦略に積極的な関与をしていたというのが、今の西欧での定説となっているようだ。
そんなことは、言われてしまえば当たり前のことだけれど、こういうひとつひとつについて、ほとんど思考停止で考えようとしてこなかったように思う。

この本の中で特に興味深く読んだのは、ヒトラー/ナチスドイツ政権が第二次大戦に突入していくときに、国民に対してどのような態度をとっていたか、という政策にまつわる話だ。
第一次大戦の苦い記憶が、国民にきっとまだ根強くあるころだったから、軍備拡大をしたくても、まず国民の反感を買ってはいけないという考えがあったという。その結果、国民の生活を苦しめないような政策を採ることが優先されていた。たとえば、財政が逼迫して、原料備蓄や軍備拡大は思うように進んでいなかったが、衣料品や嗜好品の輸入が優先され、国民の生活水準を保てるようにしていた。その輸入量は、1938-39年においても好況だった頃に匹敵するほどだったという。
そして、軍拡と国民の生活水準を保つことの両方を実現するということは、必然的に、他国を制圧することを意味した。制圧した国の外貨を獲得して、捕虜や外国人労働者を使って過酷な労働を強いて軍備拡大をはかり、資源をドイツ国民に分配する。それがナチスドイツが行なっていた政策のありようだ。
そして、この収奪政策によって国民の生活が成り立っていた。そのことを知りながら、それを享受していたドイツ国民は、戦争の共犯者である、と筆者は言う。軍の人間だけでなく、国民ひとりひとりに非があるというのだ。重く厳しい指摘だ。
視点を市民の側に転じれば、積極的に加担したのではなく加担させられたのだ、という言い方もできるかもしれない。でも、わたしが何かの恩恵に浴しているのなら、その後ろにある犠牲を知らなければいけないと思う。知った上で、選択しなければいけないと思う。結局、そういう一つ一つの個人の選択が、いつだって大事なのだ。そういうことをいちいち考えるって難儀だけど、それが自分自身の生活をあるべきところに据えるための術だし、社会と呼ばれるものだって同じだと私は信じている。(と、自分の肝に銘じる。)

今回、この本を読んで初めて、「通常戦争」という言葉を知った。ある種、ルールに則り、どこかで決着として停戦になり、講和条約などが締結されるようなケースを指しているようだ。独ソ戦は、この通常戦争に、収奪戦争、絶滅戦争(世界観戦争)の要素が加わり、それらが次第に色濃くなっていくのが特徴だという。収奪戦争に向かう背景はすでに書いたけれど、この戦争が暴走していったのは、ヒトラーの強烈な民族的差別意識やスターリンの資本主義への憎悪が、国民の感情をうまく捉えてしまったからなのかもしれない。ドイツの側からだけみても、独裁者たちの一方的な押し付けというよりは、蔓延していた負の感情や不満が巧みに利用されて世間の空気が形成され、生活が悪くならないのをいいことに、為政者たちに呼応していったのだろうと思う。そして実際のところ、戦争をするためには世間のムードが欠かせない。だから簡単に世間の一部になってはいけない。


この本の優れている点は、最近出された本というだけあって、独ソ戦について、これまでにこんな解釈がなされてきて、今現在はこういう解釈に落ち着いている、というような書き方がされていることだ。戦後長らく、ソ連では過去が隠蔽・歪曲され、ドイツではすべての罪がヒトラーに押し付けられてきて、なかなか事実が浮かび上がってこなかったという。複数の解釈に触れると、歴史というものが、誰かの視点による一つの解釈でしかない、ということがよくわかる。どういうストーリーが今の時代にかなっているのか、今の為政者にとって都合がいいか、市民に支持されそうかということで、歪められたり誇張されたり変化する。もちろん、事実が発見されることによっても変わってくる。情報はいつも限られていて、今テーブルにある事実を集めて、それらしい物語にする作業が歴史になる。だから、今大きな声で語られている歴史や情報が、真実を物語っているとは限らない。そのことを心に留めておこう、と改めて思う。


大木毅(2019)『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』岩波書店

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