入管問題に見る日本の社会の現在地

先日、『牛久』という映画を見にいった。
「牛久」とは茨城県牛久市にある東日本入国管理センターのことを指している。ここに、日本での在留資格のない外国人が収容されている。その中の状況や、彼らを取り巻く状況を映し出すドキュメンタリー映画。上映後、監督の舞台挨拶と質疑応答の時間があって、監督と観客の一部の声を聞くことができたのはラッキーだった。
一つの映画館でそう長く上映される映画ではないだろうから、即時性が大事だと思う反面、文章にするには咀嚼も必要だった。

「日本は難民申請書を配るのに難民認定をしない。じゃあなんで配るの?おかしいよ。」映画の中で、収容されている人からこんな言葉が出てくる。
国にいられなくなって日本に来て難民申請をしても、一向に認定されない。収容施設での収容期限は無期限で、その中での扱いもひどい。うつになる。自殺未遂も起きる。仮放免(一時的に外に出られる)のために、命を削ってハンガーストライキを起こす。そうやって命懸けで出られても、またすぐに戻される。仮に長期の仮放免が認められても(新型コロナの影響で、実際にそういう状況があるらしい)、在留資格のない人には働く資格がないからお金もない。そういうひとつひとつが影響して、家族との関係も悪化する。すべてが悪循環だった。それが施設に送られた人たちが直面している現実。その中で、互いに助け合って、互いを労りあっている。
施設の中で、人としての扱いを受けていないと感じる人が多くいる。それは異常だし、職務や正義の名の下に、その状況が正当化されるのだとしたら、くそくらえだ。収容者の一人、アリさんの言葉が今も耳に残る。「こんな人生はいらないよ。」
収容されている人たちに対してこんな仕打ちしかできない日本に、難民を受け入れる用意があるとは到底言えない。今の状況は、収容する側の日本社会にも、される側の人たちにも、いいことが一つもないように思う。建前上、申請書だけは用意します。でも実際は受け入れません。なんて卑劣だ。私は、今の状況が許されるくらいなら、難民の受け入れをやめるべきだと思う。もしこの状況が続くなら、「日本は申請書を渡すだけの難民認定をしない国です」ということを、もっと声高に世界に発信しなければならない。
同時に施設には、難民申請者とは別に、ビザが切れたあとにオーバーステイしているようなケースの人たちも収容されている。彼らに社会がどういう対応をしていくのか、難民認定とは別の問題として同時並行で考えなければいけないけれど、上に書いたような施設での扱いは、許されるわけがない。

この映画の中で特にショッキングなのが、収容者に対してなされる「制圧」という行為だ。収容されている人が、なにかしら、職員の任務遂行の妨げになるようなことをしたときに、その行為が許されている、らしい。「制圧」というのは、複数人で1人の収容者を抑え込むことのようで、適切に行われたことを立証できるように、センター側がビデオで記録を残すことになっているらしい。映画の中で出てくる映像(制圧を受けた当事者(デニズさん)側が開示請求したとのこと)では、1人に対して7、8人がかりで、動けないように押さえつけたり、息をできないように喉元を苦しめたり、関節を痛めつけたりしていた。後者2点については、抵抗したから、というかっこつきなのかもしれないが、仮にそうだとしてとても正気ではないと思った。制圧を受けたデニズさんは、痛みと必死の抵抗で叫んでいた。映像をみながら、痛ましいと感じる一方で、現実に起こっているなんて嘘みたいで、どこか傍観してしまうような感覚があった。私の頭に浮かんだのは集団リンチという言葉だった。

上映後、観客の一人から、「入管の人が悪いとは思わない、制度が悪いんだと思う」というような発言があった。監督もそれに呼応しているように見受けられた。でも私は同意できない。
たしかに制度は悪い。たしかに職員は悪人ではないかもしれない。渋々、やっている人もいるだろう。でも、制度に則ってやっていることだったらしょうがないんだろうか。命を削ってハンガーストライキをする収容者を、まだ大丈夫、まだ大丈夫って見ていていいんだろうか。「制圧」はプロレスではない。撮影していることを知りながらあんなふうに痛めつけられるって、そしてその状況を撮影できてしまうって、どいういう精神状態なんだろうと思う。夢中になっているか、不感症になっているか、思考停止になっているか。自分たちのしていることを客観視できていたら、とても起こらないことだと思う。
と、同時に、辺見庸が『1★97』でするのと同じように、自分に問いかけてみる。自分がその立場だったらどうか。本当にやらずにいられるか。積極的な加担をしないまでも、異を唱えられるか。それはおそらく、想像よりもずっと難しいことだ。きっと耐えかねてやめた職員だって、これまでにたくさんいただろう。
制度のせい、制度が変わらなければいけない。それはそう。だからと言ってそれで片付けたら、それこそ思考停止になる。私たちは、考えないように考えないようにと仕向けられてきたのかもしれない。枠組みだけが問題だったら簡単かもしれない。でも、枠組みを作ったのも、それを使っているのも私たちで、結局、一人一人が考える力をつけなければ、事態は大きく変わらないんじゃないか。成熟した社会からほど遠いところに、私たちはいるような気がする。

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